以前、佐々木俊尚さんがこのようにツイートしていた。
なるほど、シニフィエの翻訳。確かに明治時代の「友愛」とか「理論」なんて言う言葉はシニフィエ的ですね。イメージによって逐語翻訳を超越すべきかと。

http://twitter.com/sasakitoshinao/status/14666875602

これに対し、私が次のように返信した。
翻訳者からするとカタカナを使いたいこともあるんですよね。特に新しい概念に既存の日本語を当ててしまうと、概念自体が誤解される恐れがあります。むしろ見慣れないカタカナを使うことで、新しい概念であることを強調できることもあります。

http://twitter.com/nishinos/status/14668343043

この意見を佐々木さんにリツイートしてもらったため、何人かのユーザーから意見をもらった。興味がある人がいるようなので、これに関して自分の考えをブログ記事を書くことにした。


◆ 言語で異なる意味範囲

上記のツイートで私が「特に新しい概念に既存の日本語を当ててしまうと、概念自体が誤解される恐れがあります」と書いた。これは、言語によって語の守備範囲が違うという点から発生しうる誤解のことだ。
例えば英語の「water」は日本語の「水」である。しかし「water」は「湯」も表す。これは、英語に「湯」を表す一語がないためだ。もし熱い水という意味を伝えたければ、「hot water」と形容詞を加えなければならない。すなわち、「water」と「水」は語の守備範囲が異なるのである。対応関係を図示すると次のようになる。

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言語によって語の守備範囲が異なるということは、世界に対する認識、つまり世界をどのように切り取るかが、言語によって異なるということである。例えば日本語では虹を 7 色(の語彙)を使って切り取り、別の言語では 6 色や 3 色(の語彙)を使って切り取るといった具合である(この辺りの詳しい話は「サピア=ウォーフの仮説」「ソシュール」などで調べていただきたい)。


◆ 翻訳者は意味拡大にどう対処するか

このように言語によって語の守備範囲が異なる。そのため、ある新しい概念が英語に登場して意味範囲が変わった場合、日本語の既存訳では大きなずれが生じてうまく対応できないことがある。

例えばコンピュータのソフトウェアが一般化する前、「install」という語は「設置」などと訳されてきた。図にするとこうである。円同士が完全に一致しないのは、許容できる程度ではあるものの、言語によって多少の意味範囲のずれがあるからと考えられるからである。

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install の語源を調べると、機械などを設置するという意味は 1882 年かららしい。恐らくその類推から、ソフトウェア(プログラム)をコンピュータに「設置」する行為を install と呼んだのだろう。これは少なくともノイマン型コンピュータ登場以降であろうから、どれだけ長く見積もっても 1950 年以降である。このとき、ソフトウェアも意味の対象としたことで、install の意味範囲が変わったはずである。下の図で言うなら、青の円が大きくなったということだ。

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この install の意味範囲の広がりに対し、日本語が対処する方法は 2 つあった。

 (1)既存の日本語の範囲も広げ、英語に対応させる
 (2)別の語によって新しい範囲に対応させる

下の図で言うと、左が(1)、右が(2)である。

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恐らく数十年前、ソフトウェアの install を最初に「インストール」と訳した人は、悩んだ末に(2)の方法を選択した。広がった意味に対して新しい語を当てることで、新しい現実に対応したのである。


◆ なぜ IT 分野にカタカナ語が多いのか

新しい意味や概念に対応する方法が 2 種類あると書いた。(1)であれば、既存の日本語を使うため、新しい語が作られることはない。また(2)の場合であっても、必ずしもカタカナ語である必要はない。例えば漢字で造語すればよいのである。

ところが、IT 分野では、新しい語は漢字やひらがなではなくカタカナが多い。私が思うに、その理由は次の 2 点である。

・時間がない
IT は技術進歩が速く、日々新しい概念が生まれる。そのため、いちいちコンセンサスを得て訳語を決められないのである。元の英語の音をカタカナにするという方法が手っ取り早い。なんだそりゃ、という感じだが、これが現実である。たとえ苦労して漢字で造語している人がいたとしても、多数派がカタカナであれば、そちらがデファクト スタンダードになる。恐らくこれが一番の原因である。

・カタカナだと原語に遡行できる
仮に日本語にできたとしても、むしろそれが困るケースもある。例えば「設定」という日本語訳があったとする。元の英語は「setting」かもしれないし「configuration」かもしれないし、もしかして「customization」かもしれない。このように英語と日本語が 1 対 1 で対応しない場合、元の英語に遡れない。特にソフトウェアのマニュアルでは、ユーザー インターフェイス(ボタンなど)は首尾一貫させる必要があるため、別々の英語に同じ日本語が当たっていると困ることがあるのだ。これは IT 分野の翻訳者にしか実感できないテクニカルな理由だろう。


◆ まとめ

・言語によって、語の意味範囲(守備範囲)が異なる
・新しい概念の登場によって、語の意味範囲が広がった場合、翻訳者は次の方法で対処しようとする
  - 既存の日本語の範囲も広げ、英語に対応させる
  - 別の語によって新しい範囲に対応させる
・IT 分野では主に進歩が速くて時間がないという理由で、カタカナを使って上記の対応することが多い



:これは私個人の意見であり、評価の固まった学説などではない点にご注意ください。