終戦記念日のゴタゴタに便乗して、第二次大戦のことについて書こうと思う。「平和の大切さ」みたいなのを語るのも気恥ずかしいので、祖父の経験について事実だけを少し記述する。僕が小学生の頃(20 年以上前)に聞いた話なので、記憶も薄れかけているが、ブログにでも記しておかないと永遠に消えてしまうだろうから、思い出せる範囲で書いてみる。

祖父は徴兵され、終戦間際は満州にいた。計算すると、当時は恐らく 20〜22 歳だったと思う。確か「第 800 大隊」と言っていた。調べてみると、確かにそのような部隊があったらしい(参考)。第 4 軍直轄の独立混成第 136 旅団に属していて、終戦時には「嫩江」という場所にいたとのことだ(Google Maps)。

ご存知のとおり、終戦間際にソ連は日本に宣戦布告(1945 年 8 月 8 日)し、満州に侵攻した。戦力で見るとソ連軍の方が圧倒的に上で、日本軍は後退するしかなかったようだ。この辺りは Wikipedia の「ソ連対日参戦」に詳しい。

ソ連を迎え撃たなければならないが、まともに戦ってはとても勝てない。そこで祖父は爆弾を渡された。そしてソ連軍が通りそうな道に穴を掘り、その中に身を潜め、敵が通過するのを待った。要するに、戦車か何かが穴の上を通ったら自爆せよ、ということだ。戦車は外側の装甲は堅いが、床の部分は弱いという話だったらしい。

この穴の中で祖父は爆弾を抱え、待機していた。どのような気持ちで待っていたのか、いくらでも想像はできるが、しかし実感することは不可能である。ここで僕が勝手に解釈するのは止めておこう。

そのように穴の中でしばらく身を潜めていたが、結局爆弾を使うことはなかった。ソ連軍が通過する前に終戦(8 月 15 日)になったらしい。降伏した日本軍の兵士はソ連軍の捕虜となり、シベリアに移送された。「シベリア抑留」である。祖父もシベリアに送られた。

具体的にシベリアのどの辺りに抑留されていたのかは分からない。しかしやはり環境は厳しかったようだ。冬の朝、目が覚めると隣に寝ていた戦友が凍死していたこともあった。その他、断片的に聞いて覚えている捕虜生活の話をいくつか挙げておく。


  • 食料を運んでいる貨車(または食料倉庫)で作業していたとき、股引とズボンの間に食料を隠して持ち帰り、宿舎で分けて食べた。

  • 捕虜の作業をソ連兵が監視するのだが、中には酷い監視兵もいたらしい。そのような兵士を捕虜みんなで洞窟かどこかに連れ込んで殺害し、埋めたことがあった。捕虜もただやられていたわけではないようだ。

  • 外で作業をしていると、現地の子供と話すこともあった。子供が「日本には太陽があるか?」と聞くので「あるある、日本には 2 つもあるぞ」などと冗談を言った。簡単なロシア語は分かるようになったらしい。

  • 「働かざるもの食うべからず」など、共産主義の考え方を叩き込まれた。



そのような抑留生活を何年か送っていたが、夏にブーツを脱いで農作業をしていたところ、足に木か何かが刺さって怪我をして働けなくなった。また以前から内臓の疾患もあったらしく、日本に帰されることになった。帰国の船は確か、舞鶴港に入ったと記憶している。


今思い出せる祖父の話は、以上の通りである。
終戦がほんの数日遅れていたら、ソ連軍は祖父が待機する穴の上を通過していたはずである。そうなれば、祖父は自決していただろうし、当然今の僕はいない。自分の存在が歴史の偶然に左右され得ていたというのは、不思議なことだと思う。