日本の現役の翻訳者で、「翻訳理論」を知っている人はあまりいないのではないでしょうか。少なくとも私が同業者同士で会ったときに翻訳理論の話が出てきたことは一度もありません。

正直なところ、私も知りません。まあ翻訳理論を知らなくても翻訳を仕事にできるということです。ただ、日々の翻訳実践というのはその場その場の個別の経験であり、そこから一般化できる何かが見つけられないだろうかという疑問は持っていました。個々の具体的な経験を抽象化し、一般的な「理論」が導き出せないか、と。

やはり私が知らないだけで、理論を考えている人はいたわけです。
例えば『よくわかる翻訳通訳学』に「Domestication(受容化)」と「Foreignization(異質化)」という言葉が載っています(p. 136)。受容化ではターゲット言語(英日なら日本語)に馴染むような翻訳をし、異質化ではターゲット言語の規範から外れるような翻訳をします。
例えば私の専門のソフトウェア・ローカリゼーションでは、ユーザーが使いやすいように「受容化」を目指すことが普通です。逆にある種の文芸翻訳などではわざと「異質化」を狙うこともあるでしょう。
何のことはない当たり前のような話ですが、こういった理論を知っておくと、個別具体的な状況で分析したり適用したりできることもあり得ます。

しかし残念なことに、日本においてこの「理論」と「経験」がうまく絡んでないのではないかと個人的に感じます。具体的な翻訳現場の経験から理論を構築し、その理論をさらに具体的な場面で使うというサイクルです。基本的に前者(理論)は大学などのアカデミアが担い、後者(経験)は業界や職業人が関わるのだと思いますが、まあ両者のつながりが深いとは思えません。翻訳者や翻訳業界の経験を学者が吸い上げて抽象化や理論化をし、それを翻訳者や業界に戻すといった例はあまりないのではないでしょうか。

翻訳理論を知らなくても翻訳業はできますが、「どんな理論があるのか少し知りたい」と思っている方は『よくわかる翻訳通訳学』の「翻訳学」の章(p. 110-155)が入門的です。




以上です。