最近、人工知能(AlphaGo)が碁で人間に勝った(ニュース)ということで、遠からず翻訳も機械に代替されてしまうのではないかと危機感を抱いた翻訳者もいるようだ。

機械翻訳』(2014年、コロナ社)によると、「機械翻訳の目的は,入力文fを自然な出力文eへと変換すること」(p. 62)とされている(ただし機械翻訳のあらゆる関係者がこれに同意するかは分からない)。恐らく少なからぬ翻訳者も、自分の仕事は「入力文fを自然な出力文eへと変換すること」と捉えているのではないか。だから同じ目的を持つ機械に代替されてしまうという危機感を抱くのだと思われる。

翻訳学においては従来から「等価」という概念があった。これは原文(ソーステキスト)と訳文(ターゲットテキスト)との間に、何らかの等しい価値があるとする考え方である。この等価という考え方においては原文が当たり前の前提として重視されている。前述の「入力文fを自然な出力文eへと変換すること」の背景にも「等価」が見て取れる。

ところが翻訳学では「機能主義」が80年代前半頃から広まり始めた。これは、どのような訳文にするのかは「翻訳の目的」(スコポスとも)が決めるという考え方である。「何のためにこの訳文を使うのか」という点を重視するということである。原文を重視した「等価」とは前提自体が異なると言える。例えば製品広告の場合、翻訳の目的は購買意欲を高めることになるだろう。アメリカで発売した製品を日本で売る際、日本の消費者文化に適した訳文にするはずだ。その結果、必ずしも等価が維持されるとは限らない。ちなみに機能主義では、翻訳の目的それ自体を決めるのは翻訳の依頼者(上記例なら製品メーカー広告担当者)とされる。つまり、どのような訳文になるかはテキスト外部の要素が関わってくるのである。

「自然な出力文e」という部分についても面白い例がある。2009年にmixiというSNS上で流行った「サンシャイン牧場」というゲームの翻訳である。提供者が不自然な和訳を直したところ、ユーザーから不評を買ったという話だ。
また、サン牧内の言葉は基本的に中国語の直訳になっており、日本語としてやや不自然なところも目立つ。だが、一風変わった日本語が一部では「サン牧語」と呼ばれて人気なのだという。「一度正確な日本語に訳しなおしたら、ユーザーに『戻してくれ』と言われ、戻したことがあるんです。
http://ascii.jp/elem/000/000/477/477173/index-2.html

これはまれな例かもしれないが、現実の翻訳においては「自然な出力文」よりも重要視されるもの(ここではユーザーの要望)があるということである。この場合もテキスト外部の要素が翻訳を決定しているのだ。

要するに、翻訳というのは社会的な営為であって、決してテキストのみ(入力文と出力文)では完結しないということである。もし機械翻訳が人間を超えようとするなら、こういったテキスト外部の要素まで取り込まなければならない。機械翻訳では狭い意味での翻訳(等価のみ)はしているかもしれないが、テキスト外部(社会)まで含めた広い意味での翻訳はしていないし、そもそも現在は目標でもないのかもしれない。

機械翻訳の話になると「機械 vs. 人間」という対決の構図が持ち出されることがよくあるが、私自身はこの構図を設定することに疑問を感じることがある。人間は機械と同じ土俵(「入力文fを自然な出力文eへと変換する」競技)で押し合うのではなく、機械の利用できる部分を利用しつつ、土俵の外にも目を向けて興行全体を成功に導くような仕事に力を入れるべきだと思う。