翻訳会社がISO 17100(2015年発行)に準拠したサービスを提供する場合、資格要件を満たした翻訳者に翻訳をしてもらわなければならない。その資格要件とは以下のいずれか1つである。

 A. 翻訳の学位
 B. 翻訳以外の学位と2年の翻訳経験
 C. 5年の翻訳経験

Aの「翻訳の学位」が要件に定められたことから、 数年前から日本の大学(院)に翻訳専攻を設置しようという機運が高まっていて、実際にプログラムも始まりつつあるようだ。ISO 17100の資格要件を満たす、と志願者に宣伝している学校もある。
以前ある大学関係者と話をしていたら、「資格要件を満たす翻訳者が供給されないと、翻訳会社は困るはずだ。だから翻訳者養成プログラムを作る意義がある」といった内容のことを述べていた(似たことを数人が主張しているので、大学関係者内ではこのロジックが受けれられているのかもしれない)。

本当に翻訳会社は困るのだろうか?
翻訳会社ISO 17100の資格要件としているのは上記A〜Cであって、Aのみではない。つまり翻訳の学位がなくても、翻訳経験があれば資格要件は十分満たせる。これを先述の大学関係者に言ったところ、「しかし、翻訳経験がなくても資格要件を満たす新人が出てこないと、将来的に困るのでは…」という趣旨の答えが返ってきた。

やはりこの答えも疑問に感じた。
ISO 17100に準拠したサービスは、翻訳会社にとって高付加価値のサービスである。厳しめのプロセスを経る一方、料金を高めに設定できる。そんな大事なサービスに、新人翻訳者などを使うはずがない。
周りの業界関係者に聞いたところ、やはり同じ感想を抱いたようだった。いくら資格要件を満たしていても、新人は使わないだろうという話だ。少なくとも数年はプロとしての翻訳実績がなければ、ISO案件には使えないということである。つまりは実力第一ということだ。
そう考えると、資格要件はBやCで十分ということになる。翻訳の学位がある翻訳者を揃えられなくても、翻訳会社は特に困らないのである。

そもそもの話だが、ISO 17100で翻訳者の要件としているのはA〜Cの「資格」だけではない。「力量」も要件とされている。つまり「資格」と「力量」の両方を満たすことで初めてISO案件に関われるのである。「力量」の方は学位を取ったからといって自動的に付帯するわけではない。
大学関係者は「ISOの翻訳者資格要件を満たすプログラム」という宣伝文句で学生を集めたいようである。しかし力量要件も満たさないとISO案件に関われないことをきちんと明記すべきだろう。もし力量が要件であることを知らなければ調査不足であるし、知っていたとしたら志願者に対して不誠実だ。

また、翻訳案件のすべてがISO 17100のプロセスで進められるわけではない。受注のどの程度がISO案件になるかはまだ未知数だ。コストが高くなると言ってISOのプロセスを採用しないクライアントも多いだろう。もしISO案件が少なければ、資格要件を満たす翻訳者の数はそもそも大した問題にはならないのである。



私は社会人学生として博士課程に在籍していたため、学会などでも大学関係者と関わることとがあった。そこで何度となく感じたのは、翻訳実務や翻訳業界についてよく知らない人が多いし、積極的に知ろうとしたり関わろうとしたりする意志も弱いということだ。
前述のように、ある大学関係者は「資格要件さえ満たしていれば新人でも翻訳者として採用される」という考えを持っていた。一方、業界関係者なら「実力第一」という考え方だ。ちょっと業界関係者に聞き取り調査でもすれば考え方の違いは分かるはずだが、そういったこともしていない。また、大学の研究者なら翻訳業界の研究もしているはずだと思われるかもしれないが、例えば翻訳関連学会の論文集を見ても、翻訳業界の研究はまずない。

大学関係者が実務や業界に興味がないというのは別に構わない。ただ、「ISO 17100の資格要件を満たすような翻訳者志望者を育成し、翻訳会社に雇ってもらう」という姿勢であれば、業界を知る努力をすべきではないか。
正直なところ、大学の「ISOの資格要件」云々というのは、学生を集めるための目先の宣伝文句にしか聞こえないのだ。もし翻訳会社に将来に渡って学生を継続的に採用してもらいたいのであれば、業界を研究し、その要望も聞きつつ、長期的に良い関係を築く方向に進むべきだと思う。



途中の話がかなり長くなってしまったが、記事のタイトルは「ISO 17100の翻訳者資格を取るために大学院に行くべきか」である。
結論から言うと、「今行くメリットは小さい」ということだ。その理由として前述の2点が挙げられる。

 1. 「資格」要件は満たされるが、「力量」要件は満たされない
 2. 「資格」が満たされても、実力(翻訳経験)がなければ結局使ってもらえない

さらに、

 3. 適切なカリキュラムを作ったり教えたりできるか疑問

という点も挙げられる。前述のように大学関係者は翻訳業界に関心が薄く、研究もしていない。ISO 17100はTSP(翻訳サービス提供者)向け規格なのに、翻訳業界に興味を持たない大学関係者が、果たして適切なカリキュラムを作ったり、実務翻訳を教えたりできるだろうか。本人が直接教えないにしても、業界に人的ネットワークがなければ適当な外部講師を見つけて呼ぶこともできないだろう。

また、

 4. 大学院2年間はコストが高い

という点もある。2年間大学院に通うと、学費に加え、仕事をしないことによる収入逸失(いわゆる機会費用)がある。学費が年100万円、収入逸失が年300万円だとすると、2年間の在学で合計800万円投資することになる。もっともこれが高いかどうかは人によるだろうが……。

では、翻訳者志望者はどうしたらよいのだろうか?
現時点では、大卒後にどこかの企業に就職して働きつつ、平日夜間や週末に翻訳学校に通い、その伝手から業界に入って翻訳実務経験を積むことがベストだと考える。
まず実務翻訳をする上で、仕事経験は大事だ。社会人としてのコミュニケーション能力に加え、ビジネスそのものの理解が深まる。実務翻訳ではビジネス用語も頻繁に登場する。働きながらであれば収入が途絶える心配もない。
また、翻訳学校は翻訳会社が運営していたり、現役の翻訳者が教えたりしていることが多い。本当に業界で求められている実力が身に付くはずだ。「実力第一」を目指すなら翻訳学校が最初の選択肢だろう。
この方法であれば、収入を維持した上で実務翻訳能力を身に付け、さらに経験によりISO資格要件も満たせる。



大学関係者には知り合いも多いのだが、大学にとって厳しい内容を書いてしまった。ただ、やはりこれが私の率直な意見である。
ISO資格の件は、単に学生集めの宣伝に利用するのではなく、業界との良好な関係構築に活かして欲しいと思う。良好な協力関係ができれば、大学にとっても業界にとっても翻訳者志望者にとってもプラスになるはずだし、それを期待している。