前回ISO 17100に関する記事を書いたところ、翻訳関係者から反応があった。Facebook上のコメントのやり取りの中で、関西大学で教えている山田優さんから翻訳者教育について「産学連携」の話題が出た。山田さんは自身で翻訳会社も経営していて、実務と学術の両方を理解している方である。

私も産学で連携することについては望ましいと思う。ただ、連携するには双方(産業界と学術界)にメリットがなければ長続きしない。いわゆる「ウィン・ウィン」の関係である。現状、もし翻訳教育で連携するとしたら大学と翻訳学校(スクール)の協力が考えられるだろう。今のところ大学に実務者養成のノウハウは相対的に乏しいため、翻訳学校から知識や人材を提供してもらえば、大学側にはメリットはある。一方、翻訳学校が得られるメリットは何だろうか?

以前こういう経験をしたことがある。私が所属していたある学会で、民間団体と連携して共同研究をしようという話が持ち上がった。連携できれば研究者は知的好奇心を満たしたり、研究業績を追加したり、研究助成金を得たりできる。結局私は参加しなかったのだが、連携計画は頓挫したようだった。学会が自分の側のメリットを中心に進めようとしたのが原因なのではと推測している。

話は戻るが、翻訳教育で産学連携するのであれば、翻訳学校にとってもメリットがなければならない。それはやはり「大学でしか提供できない何か」を提供することではないか。
私は大学について意見を出せるような人間でもないのだが、東京大学の中原さんが言う「抽象化と具象化」という部分ではないかと感じている。翻訳業界では日々の経験が蓄積されている。それは非常に貴重なものなのだが、誰かと共有したり将来活用したりするためには抽象化や一般化が不可欠だ。そうして初めて効果的に知識や経験を伝達し、さらなる実践に移せる。抽象化するのは翻訳技術や品質管理など、さまざまなものが考えられるだろう。



ところで冒頭の山田さんは、大学が教えられる具体的な一例として「言語学」を挙げていた。これも私は賛成である。ISO 17100にも、実は言語学の概念がいくつも出てくる。言語使用域(register)や語彙的結束性(lexical cohesion)である。また例えば英語の場合、高校までに習う「英文法」は基本的に「文レベル」しか対象にしていない。そのため言語学以外(法学や工学など)を専攻して実務翻訳者になった人は「文章レベル」(ディスコース・レベル)についてあまり意識がないかもしれない(もちろん個人で勉強している人はいるだろう)。
文章レベルに対する意識は、特に翻訳メモリー(TM)が隆盛の現在重要だと思う。TMは基本的に1文ずつ区切って登録する。そのため、1文それ自体の翻訳に問題がなくても、(文が集まった)文章として問題が発生することがある。これは翻訳学では「sentence salad」などと呼ばれている(文が切られてバラバラに盛りつけられてイメージ)。翻訳者の高橋さきのさんも「ブチブチ訳」(『翻訳のレッスン』p. 159)と呼んだり、同じく翻訳者の高橋聡さんもこの問題をブログ記事にしたりしている。
つまり実務家が関心を寄せている問題があり、それを言語学とうまく絡めながら教えるという方向もあるのではと感じる。

ちなみに私も以前、ソフトウェア翻訳で役立つことを目指し、IT英語について言語学的なアプローチで研究したことがある(論文PDF)。ISO 17100にも登場する「言語使用域(レジスター)」を扱っている。



まとめると、翻訳教育で産学連携する場合、双方にとってメリットのある形にしないとうまく行かないと思う。大学は大学しか提供できないものを考える必要があり、それは「抽象化と具象化」だったり、具体的には「言語学」だったりが考えられる。

ISO 17100が契機となって産学が良い関係を構築し、両者がともに発展することを期待するばかりである。