先週、MultiLingual誌のサイトで「Career question: Do I really need to learn Trados?」という記事が掲載された。
筆者はアメリカの大学で翻訳を教えている人で、学生から「翻訳の仕事を得るのにTradosを習得する必要があるか?」という質問をよく受けるらしい。そこで求人データなどを基にしながら、Tradosというシェアの高い製品を習得することについて考察している。
結論としては、Tradosを買えるならそれを優先するが、別のも習得したらどうか、といったことを勧めている。

私も、Tradosなどの翻訳メモリーを使う意味を知ることが重要であって、特定ツールの操作を覚えることが重要ではないと思う。
翻訳メモリーを使う意味は「訳文の再利用と共有」という点にあると考える。過去に生み出された知識(対訳)を複数人で将来的に活用するということだ(注1)。
そういった意味を理解するには、Google Translator ToolkitやOmegaTのように無料で入手できるツールで十分だと思う。



一般の人が翻訳と聞くと、有名な翻訳家が小説や映画字幕を訳すようなイメージがあるのではないか。これは「文芸翻訳」などと呼ばれる。
もちろんそういう翻訳も存在するが、現在、翻訳会社が受注する案件の大部分は「実務翻訳」と呼ばれるものである(もちろん翻訳は翻訳会社以外でも発生するが、それを差し引いても大きい)。例えば、やや古いがJTFの2005年調査結果(PDF)を見ると、売上の9割以上が実務翻訳分野(コンピューター、特許、医薬・バイオなど)である。

文芸翻訳では1人の翻訳家が1冊訳すような方法が主流だと思う。一方、現代の実務翻訳では、分野にもよるが翻訳メモリーを活用して多人数で大量の文書を翻訳することがある。

両者の違いは大きい。
日本史の解説を読むと、元寇のとき日本の武士は「やあやあ、我こそは…」と名乗りを上げて1対1で戦おうとした。対して元軍は、名乗らず集団で戦ったとされている。
文芸翻訳と実務翻訳では、これに近いという印象がある。つまり単独か分担かということである。
どちらが良いか悪いかという話ではなく、目的に応じて戦法が違うというだけだ。大量の文書を短時間のうちに翻訳するなら、複数人で分担するという戦法が適している。

もし学生が将来翻訳を仕事にする場合、需要が大きい実務翻訳分野に進む可能性が高い。その際、翻訳メモリーの知識は必須で、翻訳の授業を設けている大学なら基本的な考え方くらいは教えるべきだろう。

ところが「翻訳」と名前の付く授業のシラバスを見ても、翻訳メモリー(や実務翻訳)に触れているケースは少ない。例えば、ac.jpドメイン以下で「翻訳 シラバス」でGoogle検索(https://www.google.co.jp/search?q=翻訳+シラバス+site:ac.jp)すると、翻訳に関する授業の情報が見られる。

たまに「大学は職業訓練をする場ではない」という主張がなされることがある。しかし大学が卒業生の就職先やら就職サポートやらをホームページに載せてアピールして学生募集するのであれば、職業に関わる知識やスキルを学生に教える責任もあるだろう。
もし学生が翻訳関係の仕事に就けると期待して入学したのに、現代の実務翻訳で重要な翻訳メモリーについてすら学べないのだとしたら、実に不幸だ。

こういった現実社会の需要に目を向けない日本の大学の現状を見ると、どの翻訳メモリーを教えるべきかで悩む冒頭の状況が羨ましくさえ感じる。



【注1】
翻訳メモリーのマイナス面も同様に知っておく必要がある。
例えば、翻訳メモリーを使うと既存訳に「引きずられる」ことがある。そうなると最適な訳出ができない。また、翻訳メモリーは1文単位で対訳を格納している。1文にしか目が行かないと、文章全体が見えなくなる。