日本翻訳連盟(JTF)から「翻訳品質評価ガイドライン」が出されて半年ほど経つ。
同ガイドラインには、一般的な感覚と必ずしも合致しない説明もあると思うので、重要なポイントを2つだけ解説したい。

(1)翻訳の「品質」の定義
品質とは「翻訳成果物が、関係者間で事前に合意した仕様を満たす程度のこと」であると定義している(同ガイドラインp. 5)。
一般的には、たとえば「直訳なら品質が低い」や「こなれた和訳なら高品質」といった考え方がある。もちろんこれは間違いというわけではない。
ただ、同ガイドラインが想定する翻訳ビジネスにおいては、こういった考え方が当てはまらないケースもある。

たとえば、翻訳を発注するクライアントには「原文が透けて見える和訳が欲しい」といったリクエストをする人もいる。要するに、原文である英文の構造が分かるような「直訳」ということだ。原文の雰囲気を感じ取りたいというのが理由かもしれない。
もしこのクライアントの要望に沿おうとするなら、"低品質"の訳文を納品することになってしまう。

また、何度か本ブログで取り上げているが「サンシャイン牧場」というゲームの例も同様だ。
これは2009年に流行したゲームで、もともと中国語だったが日本語に翻訳された。当初は日本語が変だった("低品質")ため、きちんとした日本語に直した("高品質")。しかしその変な日本語(「サン牧語」)が気に入っていたユーザーからクレームが来たという話である。

また、サン牧内の言葉は基本的に中国語の直訳になっており、日本語としてやや不自然なところも目立つ。だが、一風変わった日本語が一部では「サン牧語」と呼ばれて人気なのだという。「一度正確な日本語に訳しなおしたら、ユーザーに『戻してくれ』と言われ、戻したことがあるんです。
https://ascii.jp/elem/000/000/477/477173/index-2.html

一般的な翻訳の感覚からは考えられないが、日本語としての質を落とす方向に進んだのである。

つまり、たとえば「直訳かどうか」や「日本語としてこなれているか」といったポイントで品質を定義しようとすると、困った事態が発生する場合もあるのだ。翻訳者はわざと"低品質"の翻訳をしてしまうことになる。
だから同ガイドラインでは「その翻訳案件で目指すところ(=仕様)は関係者どうしで決めてください。その目指すところが達成できていれば高品質です」としている。
実はこの「仕様を満たす程度」を品質とする考え方は同ガイドラインのオリジナルではなく、海外においてはすでに広まりつつある考え方だ(ASTM F2575やMQM)。

(2)重大度は現実への影響
同ガイドラインでは、エラーベースの評価モデルを提示している。要するに減点方式なのだが、エラーの「重大度」に応じて減点幅が変わる。
この重大度については次のように説明している(p. 20)。

あるエラーがどのくらい重いのかを示す程度。重大かどうかは翻訳の目的(例:マニュアルなら機器を操作ができる、広告なら顧客を獲得できる)を達成できるかどうかという視点から判断する。

そして重い順に「深刻」「重度」「軽度」の分類がある。たとえば深刻は「翻訳成果物の使用が不適当となるエラー。その訳文を読んだ結果、健康被害、経済的損失、社会的な評価毀損などをもたらす可能性がある」ものだ。

訳文でたとえば数字の桁が間違っていたら、誤訳の指摘が入るだろう。桁間違いはやってはいけないミスだ。医薬品の場合だったら人命に関わることすらあるので「深刻」で不思議はない。しかし、桁間違いなら自動的にすべて「深刻」になるわけではない。
たとえば誰かの日記ブログの和訳に「自宅から500メートル先にあるコンビニに行った」とあったとする。ところが実は1桁間違えていて、本当は「50メートル」が正しかったとしよう。日記ブログを読む側からすれば、コンビニが実際に500メートル先か50メートル先かは大した問題ではない(重大な被害や損失が発生するわけではない)。そのため「軽微」という判断で問題ないだろう。

このように、翻訳の目的に照らし合わせた上で、あるエラーが現実世界に与える影響で重大度を判断することになっている。


◆背景にある「機能主義」
上記(1)と(2)の考え方の背景には、機能主義的な考え方がある。
機能主義とは、先ほども出てきたように翻訳の「目的」を重視する立場である。翻訳学では「スコポス」とも呼ばれる。たとえば機器マニュアルであれば、読者が「機器の操作を完了する」という目的が達成できるよう翻訳することである。だから現地読者に合うよう、表現などが原文から離れる場合もある。
「サン牧語」に戻した件も、「ユーザーの満足度を上げる」という目的から考えれば、機能主義的には妥当な判断だ。

機能主義は翻訳学上でも大事な概念でもあるし、海外の品質基準(MQMなど)でも前提になっているので、理解しておくと便利かもしれない。