Buckeye さんのブログで、私の記事を取り上げていただきました。ここでは「翻訳の質素イノベーション」について、私の考え方をもう少し明確にしたいと思います。
私の記事の要点をまとめると、次の通りです。
・翻訳者から見ると「質が低い」訳文が人気ゲームに使われている
・しかしこの水準の翻訳で十分だと思うユーザーは多いのではないか
・ユーザーが満足する以上の品質で翻訳を提供するのは「過剰」の可能性がある
・このようなユーザーに求められるスペックと価格でサービスを提供する選択肢がある
さて、訳文を読むエンド ユーザーの満足度と、それにかかるコストは以下の図のような関係にあると私は考えています。このグラフでは、コスト(X 軸)を増やせば満足度(Y 軸)も増えるという関係を示しています。ただし一定以上のコストをかけても、それ以上満足度は上がらなくなります。X 軸の右端でカーブがフラットになっているのはそのためです。例えば、翻訳チェックを 30 回繰り返しても、コストがかかるだけで(ほとんど)満足度は上がらないでしょう。
この図では 2 種類の線があります。赤線は「翻訳者が想定するユーザー満足度」で、青線は「実際のユーザー満足度」です。翻訳者の側では、コストをかければ赤線まで満足度は上がるだろうと想定しています。しかし実際のユーザーの満足度は、青線までしか上がらないということです(図 2)。この赤線と青線のギャップが「過剰品質」の部分です。ユーザーの視点から見ると十分満足なのに、翻訳者の視点から見ると「コストをかければまだまだ満足度は上がる」と考えている部分でしょうか。
具体的にどのようなものが過剰になり得るのでしょうか。例えば、スタイルガイドで「コロンは半角を使う」というルールがあったとします。しかし翻訳文中に半角コロンと全角コロンが混じっていたとします。翻訳者の視点から見ると統一が取れていないので「改善の余地あり」でしょう。しかしエンド ユーザーの視点から見るとそれほど気にならず、「十分満足」である可能性はあります。このギャップが過剰の部分になり得ます。もちろん、不統一をユーザーが気にするならば、コストをかけて統一すれば満足度は上がるはずなので、過剰には該当しません。
翻訳以外の過剰品質の例として、テレビを挙げてみます。普通のテレビと、カップラーメン用の 3 分タイマーが付いたテレビがあるとします。「テレビを見て夢中になっていると、お湯を入れて 3 分経ったことを忘れてしまうかもしれない。そういうユーザーのためにタイマーを付けよう」と、メーカーが品質を高めるべくタイマー機能を追加したと仮定してみます。
この 3 分タイマーは「過剰品質」でしょうか?メーカーの人はこれによってユーザーの満足度が高まるだろうと考えているはずです。しかし恐らく、ほとんどのユーザーはこんな機能は要らないと思うのではないでしょうか。大部分の人が不要だと思えば、過剰品質と言えます。重要なのは、ユーザーの視点から見ることです。翻訳者やテレビ メーカーは「これでユーザーの満足度は上がるだろう」と思っているものの、ユーザーは「そこまでは要らない」と感じています。過剰かどうかは、提供する側の視点ではなく、ユーザーの視点から判断すべきでしょう。
「そこまで要らない」と考えるユーザーの視点に立つことこそ、「質素イノベーション」です(イノベーションは「技術革新」と訳されることがあるため技術に関することと思われがちですが、技術に限定されません。視点やパラダイムの転換も含まれます)。たとえばエコノミスト誌の質素イノベーションの特集では、インドの 2,200 ドルの自動車や、2,000 ドルの心臓手術(アメリカでは 2 〜 10 万ドル)を挙げています。いずれも、「そこまで要らない」というユーザーのニーズに応えています。
つまり「翻訳の質素イノベーション」とは、翻訳者から見れば必要な品質であったとしても、ユーザーの視点から不要と判断されるなら過剰品質と判断して省略し、その分価格を下げて提供することです。
◆
Buckeye さんの記事に対して 1 点だけ反論させていただきたいと思います。ブログでこう書かれています。
「同じ条件で提供されたとき」とありますが、そもそも同じ条件で提供されることはあるのでしょうか?
「最低限の日本語」と「きちんとした日本語」では、制作にかかるコストが違います。きちんとした日本語ではコストが高いはずです。サンシャイン牧場は無料ゲームなので気づきにくいですが、日本語の高品質化によるコストは、最終的には利用者が負担するはずです(広告を余計に見せられる、など)。ですから、「最低限の日本語のサンシャイン牧場」と「(余計に広告を見せられるが)きちんとした日本語のサンシャイン牧場」とを比較すべきではないでしょうか。きちんとした日本語には追加コストが必要なので、条件が同じになることはないのではと思います。
私の記事の要点をまとめると、次の通りです。
・翻訳者から見ると「質が低い」訳文が人気ゲームに使われている
・しかしこの水準の翻訳で十分だと思うユーザーは多いのではないか
・ユーザーが満足する以上の品質で翻訳を提供するのは「過剰」の可能性がある
・このようなユーザーに求められるスペックと価格でサービスを提供する選択肢がある
さて、訳文を読むエンド ユーザーの満足度と、それにかかるコストは以下の図のような関係にあると私は考えています。このグラフでは、コスト(X 軸)を増やせば満足度(Y 軸)も増えるという関係を示しています。ただし一定以上のコストをかけても、それ以上満足度は上がらなくなります。X 軸の右端でカーブがフラットになっているのはそのためです。例えば、翻訳チェックを 30 回繰り返しても、コストがかかるだけで(ほとんど)満足度は上がらないでしょう。
この図では 2 種類の線があります。赤線は「翻訳者が想定するユーザー満足度」で、青線は「実際のユーザー満足度」です。翻訳者の側では、コストをかければ赤線まで満足度は上がるだろうと想定しています。しかし実際のユーザーの満足度は、青線までしか上がらないということです(図 2)。この赤線と青線のギャップが「過剰品質」の部分です。ユーザーの視点から見ると十分満足なのに、翻訳者の視点から見ると「コストをかければまだまだ満足度は上がる」と考えている部分でしょうか。
具体的にどのようなものが過剰になり得るのでしょうか。例えば、スタイルガイドで「コロンは半角を使う」というルールがあったとします。しかし翻訳文中に半角コロンと全角コロンが混じっていたとします。翻訳者の視点から見ると統一が取れていないので「改善の余地あり」でしょう。しかしエンド ユーザーの視点から見るとそれほど気にならず、「十分満足」である可能性はあります。このギャップが過剰の部分になり得ます。もちろん、不統一をユーザーが気にするならば、コストをかけて統一すれば満足度は上がるはずなので、過剰には該当しません。
翻訳以外の過剰品質の例として、テレビを挙げてみます。普通のテレビと、カップラーメン用の 3 分タイマーが付いたテレビがあるとします。「テレビを見て夢中になっていると、お湯を入れて 3 分経ったことを忘れてしまうかもしれない。そういうユーザーのためにタイマーを付けよう」と、メーカーが品質を高めるべくタイマー機能を追加したと仮定してみます。
この 3 分タイマーは「過剰品質」でしょうか?メーカーの人はこれによってユーザーの満足度が高まるだろうと考えているはずです。しかし恐らく、ほとんどのユーザーはこんな機能は要らないと思うのではないでしょうか。大部分の人が不要だと思えば、過剰品質と言えます。重要なのは、ユーザーの視点から見ることです。翻訳者やテレビ メーカーは「これでユーザーの満足度は上がるだろう」と思っているものの、ユーザーは「そこまでは要らない」と感じています。過剰かどうかは、提供する側の視点ではなく、ユーザーの視点から判断すべきでしょう。
「そこまで要らない」と考えるユーザーの視点に立つことこそ、「質素イノベーション」です(イノベーションは「技術革新」と訳されることがあるため技術に関することと思われがちですが、技術に限定されません。視点やパラダイムの転換も含まれます)。たとえばエコノミスト誌の質素イノベーションの特集では、インドの 2,200 ドルの自動車や、2,000 ドルの心臓手術(アメリカでは 2 〜 10 万ドル)を挙げています。いずれも、「そこまで要らない」というユーザーのニーズに応えています。
つまり「翻訳の質素イノベーション」とは、翻訳者から見れば必要な品質であったとしても、ユーザーの視点から不要と判断されるなら過剰品質と判断して省略し、その分価格を下げて提供することです。
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Buckeye さんの記事に対して 1 点だけ反論させていただきたいと思います。ブログでこう書かれています。
最低限の日本語品質のサンシャイン牧場ときちんとした日本語のサンシャイン牧場が同じ条件で提供されたとき、みんな、最低限の日本語品質のサンシャイン牧場を取る……そういうことにはならず、逆に、みんな、きちんとした日本語のサンシャイン牧場を取るでしょう。
最低限の日本語品質のサンシャイン牧場ときちんとした日本語のサンシャイン牧場が同じ条件で提供されたときどうなるかを考えれば自明ですが、同じ条件なら、よいものが売れます。経済原則として当たり前です。
「同じ条件で提供されたとき」とありますが、そもそも同じ条件で提供されることはあるのでしょうか?
「最低限の日本語」と「きちんとした日本語」では、制作にかかるコストが違います。きちんとした日本語ではコストが高いはずです。サンシャイン牧場は無料ゲームなので気づきにくいですが、日本語の高品質化によるコストは、最終的には利用者が負担するはずです(広告を余計に見せられる、など)。ですから、「最低限の日本語のサンシャイン牧場」と「(余計に広告を見せられるが)きちんとした日本語のサンシャイン牧場」とを比較すべきではないでしょうか。きちんとした日本語には追加コストが必要なので、条件が同じになることはないのではと思います。