数年前にアメリカでトヨタ車の「急加速」が問題になりました。去年になり、結局ソフトウェアに問題はなくフロアマットや操作ミスが原因だったと結論付けられました。ところが CNN がこれについて、トヨタは以前からソフトウェアの問題を認識していたが当局に届け出ていなかった、という内容のニュースを流しました。トヨタはこれに反論しています。

日本語のニュース:
ロイター: 急加速に関する米CNN報道は「著しく不正確」=トヨタ
日本経済新聞: トヨタ、米CNNに抗議文 「間違いを無責任に放映」
ブルームバーグ: トヨタ副社長:「事実無根」−急加速の懸念示す社内メモのCNN報道で
産経新聞: トヨタ急加速認識示すメモ CNN報道 「事実無根で心外」と副社長

CNN のニュース動画:



◆ 翻訳の比較

新聞記事を見ると、トヨタは「誤訳」があるとしています。そのため CNN でニュースになった部分の原文を CNN のサイトから取得して比較してみました。CNN では慎重を期すためか、恐らく外部から得た英訳(「英訳 1」と呼ぶ)に加え、自社で 2 つの英訳(「英訳 2」「英訳 3」と呼ぶ)を作成したようです。つまり、英訳は 3 種類あります。

日本語の原文:
日本語では、「アクセルセンサ異常時全車速ACCが勝手に発進」となっています(画像の水色下線部分)。

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(http://i2.cdn.turner.com/cnn/2012/images/02/26/toyotamemojapanese.pdf より取得)


英訳 1 の問題点:
まず「英訳 1」です。
「the cruise control activates by itself at full throttle when the accelerator pedal position sensor is abnormal.」と訳されています(水色下線部分)。

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(http://i2.cdn.turner.com/cnn/2012/images/02/26/toyotamemoenglishtranslation1.pdf より取得)

日本語の「全車速」とは、「すべてのスピードの範囲」(つまり低速でも高速でも) といった意味ですが、英訳では「at full throttle」となっています。これは「アクセル全開」や「全速力」という意味なので、まったくの誤りです。実際トヨタはこの部分に反論し、「Full Range ACC」という訳語を使っています(PDF)。


英訳 2 の問題点:
次に「英訳 2 」です。これは CNN が依頼して作成した翻訳文です。
「sudden unintended acceleration due to wrong judgment made by the full speed range Adaptive Cruise Control (ACC) System when there is an abnormality with the accelerator pedal position sensor」となっています(水色下線部分)。赤下線は翻訳者のコメントです。

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(http://i2.cdn.turner.com/cnn/2012/images/02/26/toyotamemoenglishtranslation2.pdf より取得)

日本語の「勝手に発進」が「sudden unintended acceleration」になっています。acceleration とは「加速」のことで、「発進」ではありません。


英訳 3 の問題点:
最後に「英訳 3」です。これも CNN が依頼したもののようです。
「the accelerator malfunction that caused the vehicle to accelerate on its own」となっています(水色下線部分)。
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(http://i2.cdn.turner.com/cnn/2012/images/02/26/toyotamemoenglishtranslation3.pdf より取得)

「勝手に発進」が「to accelerate on its own」となっています。英訳 2 と同様に、accelerate とは「加速する」という意味で「発進」ではありません。しかもこの英訳は全体としても意味が違っているように思えます。


すべての翻訳に問題:
つまり、CNN は慎重を期して 3 種類の英訳を用意したのですが、そのすべてで問題があるのです。
「full throttle」、「sudden unintended acceleration」、「to accelerate on its own」といった英語だけ見ると、いかにも「意図せずアクセル全開で急加速した」という印象を受けます。


◆ 誤訳の原因

ではなぜ、このような誤訳が発生したのでしょうか。
まずはもちろん、翻訳者の「力不足」という理由が第一に挙げられるでしょう。専門外などの理由で文脈を把握できていなかった可能性もあります。

私自身が翻訳者なので、その視点から見ると、依頼者側にも問題があったことも考えられます。つまり、「急加速に関するドキュメントなので訳してくれ」と依頼した場合、翻訳者には先入観があるため、「急加速」に該当しそうな部分をそのように訳してしまったのかもしれません。


◆ グローバル時代の注意点

さて、トヨタの反論文書にこのような興味深い文言がありました。
d. Because Japanese language is so contextual, misinterpretation by those not actually
creating or using this document is possible.
(http://i2.cdn.turner.com/cnn/2012/images/02/26/toyota_response_tocnn_1.31.2012_1730[1].pdf より引用)

つまり、「日本語はコンテクストに大きく依存するため、当該ドキュメントを実際に作成または利用していない人であれば誤訳(誤解)する可能性はある」という意味です。
確かに、原文「アクセルセンサ異常時全車速ACCが勝手に発進」を読んですぐ分かる人は、日本人でもあまりいないでしょう。

私自身、技術分野の翻訳者であるため、エンジニアの書いたドキュメントを英訳することはよくあります。よく分からない日本語に遭遇することも頻繁にあります。
社内用語や部署用語というのは、内部の人間にとってはコミュニケーションを円滑化するものかもしれません。しかし、いったん社外に出るとなると、むしろコミュニケーションの阻害となります。「方言」はその地方に特有の微妙なニュアンスを伝えられますが、しかし「方言」を話さない人は理解できないと同じです。

最近は企業の「グローバル化」が叫ばれています。共通語となる英語を勉強しようという人は多いでしょう。確かに英語は重要なのですが、しかしまず「コンテクストに大きく依存する場合、外部の人に理解されにくい」ことに意識的になる必要があるのではないかと思います。

今回のトヨタの文書はそもそも社外秘なので、社外の人が分かるようには書かれていなかったのでしょう。
もし企業のグローバル化が進み、自分の書いた日本語が外国語に翻訳される可能性があるならば、コンテクストにどの程度依存しているのかという点に注意したいものです。グローバル化はまず日本語から、といったところでしょうか。

以上です。