翻訳のプロであるならば、顧客が満足するようなサービスを提供しなければならないと言われます。ここで「顧客」というのは通常、フリーランス翻訳者であれば翻訳会社、翻訳会社であればソース・クライアントを指します。つまり、翻訳会社やソース・クライアントが満足するようなサービスを提供できるのがプロの翻訳者あるいは翻訳会社というわけです。これは比較的広く受け入れられている考え方ですし、現実のビジネスを見ると確かにそうでしょう。

ここに別の視点を持ち込むのが、本書のタイトルでもある「ユーザー中心翻訳」(UCT:user-centered translation)です。直接の顧客である翻訳会社やソース・クライアントというよりも、訳文の最終読者となるユーザーを中心に翻訳しようという方向です。この背景にあるのが「ユーザビリティー」と「ユーザー体験」(UX)という概念です。ユーザビリティーは例えば「読みやすさ」や「学習しやすさ」、ユーザー体験は「楽しい」といった体験全体に関係します。

ただしこれまで翻訳学においてユーザー(読者)が無視されていたわけではありません。例えば機能主義翻訳では、ドキュメントの目的("スコポス"とも)に沿った翻訳がなされているかどうかに注目していました。UCTが機能主義と異なるのは「ペルソナ」など具体的な分析手法をいくつか提案している点です。ペルソナとは架空の人物のことで、訳文を実際に読みそうな人を具体的に想定し(35歳のネットワーク・エンジニアなど)、その人がどう読むかを考えながら翻訳します(ちなみにペルソナ法はUCTに特有というより、UX研究ではよく知られた方法です)。

このUCTは従来の翻訳ビジネスを置き換えるというより、付加価値や多様性(diversification)をもたらすものでしょう。例えばアプリのUI翻訳です。現在主流の「1ワード何円」という計算方法の場合、画面に数語しか表示されないUI翻訳は、全く儲からない商売です。しかし「UXが高まり(結果的に)売上が伸びる」という方法で進めるなら、これまでとは違うビジネスになる可能性があります。UCTはこのような多様化に資する考え方でしょう。

以上です。